マラダーナエリア・スケッチ

「ヌワラエリア・クロッキー」  (連載2)    松林 蓉子 

初めてヌワラエリアに訪れた時、リトル・イングランド田舎町を彷彿させる・・・と思った。 ガーデェン・スタイルは勿論のこと、テニス、ゴルフ、乗馬クラブにボート乗り、ドライブからトレッキングに至るまで。 おまけに、霧雨があり、一年中、暑いスリランカの気候とは明らかに違っている。 さわやかな気候で、仏さまの菩提樹の木は育つのであろうか。 何処を横切っても、光あふれる町のクロッキーが出来上る。

1枚のパンフレット
  「ヌワラエリア」を全く知らなかった頃のことである。 日本スリランカ友の会M会員から、「Y紅茶文化クラブ」のパンフレットをいただいた。 2004年8月に設立された略称YTCCは、風光明媚な高原の町ヌワラエリアお泊り施設の写真を載せていた。 おしゃれな雰囲気が漂い、すっかり私の心に座ってしまった。 そこには、紅茶、アユールベーダ研修をはじめ、旅行案内等の要請に対応し、日本の友好交流と経済協力の増進など記されていた。 日本スリランカ友の会中核人、S会員やF会員の勤務先東レ、トラベルKKの名が読めた。私も古参ではあるけれど・・・?? 会で創っているのかしらと、錯覚しそうであった。 そして、何年か過ぎた。現在でも、その文化クラブは存在するのであろうか。 或る話題の成り行きで、「私たち夫婦、ヌワラエリア・ハウスに案内されて泊ったことがあるの。 マダムとしてお迎え下さったのが、誰あろう、YTCCオーナーM会員だったの。 お連れ下さったのは、正山寺釈迦牟尼国際仏教センター住職の・・」と、何やらのちつながっていく人間模様の素地が、感受出来た。人間関係の因縁話は別の機会に譲ろう。 おかげさまで、またしても、私の中にヌワラエリアが入ってしまったのであった。 年月としつきと場所を転じて、ガンハハ市のサマ・マハ・ビハラヤのタランガッレ・ソーマシリ師は、境内に「蓮華図書館」を創案時、遠路はるばる来寺下さる日本の方々のために、お泊りできるコーナーを造りたいと云われた。 私は即座に反応した。 仏さまの心を礎においた対応で、ボランティアビジネスにしないこと等、タランガッレ・ソーマシリ師と私の固い約束のもと完成した。 以降、お休み下さった方々から、大いに感謝されている。 1枚のパンフレットに学んだ「スリランカと日本の関わり方」は、ありがたい賜りものである。

九十九折つづらおり
  2015年3月1日、海抜1880米の山波はまるでアジアのベルベットガーデェン。 ブドウルワガラからヌワラエリアを目指した。運転助手席から後向きになって、タランガッレ・ソーマシリ師ガイド役は、私たちに語りかけた。 「この地域エリアはね。1819年にサミュエル・ベーカー卿という探検家が発見したんだよ。 もともと、険しい山が続く辺境で、茶畑の開拓者が生み出した町なんだ。やがて鉄道が敷かれ、コロンボなどに住むイギリス人の避暑地として、知られるようになった。 3月から5月まで、コロンボからヌワラエリアに政府を移して、仕事をされていた程なんだ。 そのうちに、ティー・ファクトリーも出来て、必要な労働力はイギリスの植民地だった南インドから、タミール人を連れて来た。 彼らのヒンドゥ教寺院は、ヌワラエリアにもあるよ。 ここの紅茶は英国人や欧州好みだけれどゴールなどの濃い味の紅茶はアフリカや中近東に送られていく・・」 辺りは山また山、山々は全て茶畑であり、車窓には高原のそよ風が心地良かった。 九十九折りの山道に、新鮮な野菜を売る露店が出ていたり花屋があった。 最近、野菜畑に転じる茶畑が増えているらしい。 簡単簡易な収入源となっているのであろうか。

グランド・ホテル
  いよいよ、植民地時代の名残として、広い芝生の庭とイギリス風の建物が見えてきた。 イギリス人入植者たちと現地スリランカ人の譲り合う空間が視界に入った。 高原を背後にいろどりを添える町並がしっかりと現前にきた。 イギリス植民地時代を今に伝える、1891年オープンの「グランド・ホテル」はもう、近くなってきた。 スリランカ総督のエドワード・バーンズ卿の別荘として、使用されていたと聞いている。 豪華で落着いた調度品や暖炉は、魅力あるイングランドの設しつらえである。 どのように見ても、絵になるホテルである。 以前は本館の2階に宿泊したが、設備の古さが目立った。 改装が進んだのか、設備も新しく快適に過ごせそうである。 ロビーやレストランも、リノベーションが施され、クロッキーになるレセプションである。 木を用いた内壁は、それ丈でも心が温まる。 それにしても、総督の別荘の大きくて広いこと、チューダー・スタイルとヴィクトリアンスタイルが混在する邸宅である。 さあ、サムソナイトを置いて、カーディーガンを持って、コロニアルな建物群を散策に出掛けよう。

リンドラ高等学校
ゴルフ場と公園を抜けて通る道に商店、銀行、バスターミナル前に郵便局を見つけた。 赤色のポストは外国郵便、青色は国内、緑みどりは地域内と、実にユニークで面白い。 そんな所を巡って走り、歩いて、市場のへびセイロン瓜をみて・・・・・・。 「ねぇ、僕が日本に行く前に勤めていた中部洲リンドラ高等学校・・もう、暗くなってきたから誰もいないと思うけど、外観だけでもみてみる?!」とのことで、山の方に車が向いた。 そこは、お茶畑で働くタミール人が多く住居すると云う。 タランガッレ・ソーマシリ師は、大学卒業後政府の教育機関から任命を受け、シンハラ人の生徒が通うリンドラ高等学校に赴任ふにんした。 小学校と中学高等学校の児童生徒総勢約600人であったが、今は400人程度と、スリランカも日本同様少子化が進んでいる。 何故、こんな辺鄙へんぴな場所に就職されたのであろうか。 スリランカの教育は、小学校から大学まで基本的には無料である。 そのお礼奉公は、当時は5年、今日では3年間である。 夕闇み迫り雨も降りしきる坂道を、ライトを頼りに登って止まった。 見下みおろすと、校舎らしい簡素な建物が並んでいた。 「・・・・その頃の苦労話をしても、副住職の世代は、理解できないだろうなぁ。」と、ぽつりと云われた。 もし、恩師パナガラウパティッサ師のご縁がなければ、来日もなく、私との出遇いも無かった。 私にしても、1枚のパンフレットはいただいたけれど、周りの会員方のようなお誘いはなかった。 正山寺住職の祝賀会へのお招きの封書は、2日遅れであった。 もし、・・・れば、・・・ねばの、ちょっとした縁が明暗の分かれ道となる。 従ってタランガッレ・ソーマシリ師との蓮華道は、仏さま以外ご存知ないお導きであり、不可称不可思議の世界である。 胸に熱いものがこみあげてきた。 小さな仏教寺院 雨がまだ強く降っていた。傘を開いて泥道どろみちを何歩か進んだ。 民家かしら? 小さな事務所かしら? タランガッレ・ソーマシリ師の後に、私たちは続いて入った。 「リンドラ、ポーディマール、ヴィハラヤ」で、小柄な黄衣の僧侶と、合掌対面した。 独りで寺院をきりもりされていると云う。 「昔、夜遅くなって週末のバスが来なくて・・・泊めてもらったんだ。 ガンパハからヌワラエリアまで、何便もなかったから。」その頃と同じく、ヴィハラヤに宿を求めて訪問したと、勘違いされ大笑いした。 それにしても、何処にそんな部屋がと見廻してみても見当たらない程、狭いスペースである・・・。 向かって左隣に本堂があり、仏像座像が安置されていた。 まだ修理、改造中らしく土や木材が積まれていた。 タミール人が生活する中で、商家や農家をなりわいとするシンハラ人を檀家として、こつこつと諦(あきら)めないで伝道布教に取り組まれている姿は、賞賛(しょうさん)に値する。 清らかな気持ちと勇気は、今どき宝物をみつけた気持ちであった。

合掌

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